昭和49年12月26日 朝のご理解


 ご理解第59節 習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ

 「神も喜び金光大神も喜び氏子も喜びじゃ」とそういうおかげを頂かなければならない。ただ、自分だけが有り難い、喜びというので神様のいわゆる私共の、そしてそれを取り次いで下さる、また教えて下さった金光大神も喜んでくださるような、いうならば教えがいがあったと、いうようなおかげを私共が頂き現していかなければならない。それにはどういう信心をさせて頂いたら神様がお喜び頂けるだろうかと。
 昨日矢部の方から二・三回お参りして来る方があります。大きく、お茶の製造をやっておる、まだ若い工場主の方です。設備に沢山お金をかけ過ぎてそして同時にこうして不景気になったために、もう年末というのに色々と息詰まって難儀なことになっておる。どうしたらこの年が越せるわけだろうかというわけなんです。そこにどうしたならばというそこに、教えてあげるわけにはいけない。
 もう後四日か五日で、今年もお終いだと。それにもう四方八方いうならばふさがっておるような状態のところへ、それはこうしなさいということは出来ないけれども、とにかくまあ自分で八方手を尽くしてどうにも出来ないのだから、だから、一番その手前のこと、今しなければならないこと。それを今までは自分でしてきたのですからそれを、ご神意のまにまにです、ね、例えば断りにいくにしてもまたは金を借りにいくにしましても、わざわざ矢部から出てくることはいらんから電話でもいいから、これからなされる事を一つ一つ神様にお願いされ、お伺いをされ、そしてやっていかれたら、ね、そこに、いうならば立ち行く道が自ずとついてくるでしょう。
 今どこにお金を借りにいきなさい、今どこに集金に行きなさいということを教えてあげると言うようなわけにはいけない。だから今只今しなければならないことをです自分は右と思うておっても神様が左と仰れば左のほうをしていく。そうしていく内にです、いうならばおかげが頂けれる。道が開けてくるです。
 というて、お話を致しました。そこで私がここで頂きますことは、「捨賀精心」と言う事。さというのは捨てる。がというのは賀正の賀、よろこびですね。信心の賀び。精心。精心するというでしょう。一生懸命になるということです。世の中では自分の我力で一生懸命やってなるほど、当てておる人もあるし、順調にいっておる人もある。けれどもそれは目先だけのことであってそれがまあ、いうならばあの世にも持っていけれるとかこの世にも残しておけれるとかといったような保証裏ずけといったようなものはない。ただ、信心をいわば抜きにして、いうならばお徳を頂かずにしてどんなに素晴らしい家が建っても、お徳がなしにどんなに今商売が繁盛しておってもそれは目先の事だけであって、それは神様が願われるようにな氏子信心しておかげを受けてくれよというようなおかげにはつながらないのだ。
 だからここに本当に信心によるところの繁盛のおかげ、信心によるところのいうならば、捨賀精心でなからなければならない。捨賀精心。ね。
 賀を捨てて、精心の精は勿論この精。米へんに青いを書いて。心は心という事。ね。自分を捨てていや本気でもう神様本位の生き方によろう。そして神様のおかげで成功もさせてもらおう、出世もさせて頂こう。商売の繁盛のおかげにならせて頂こう。それならば、神様のいうならば天地の裏ずけと言う事になりますから、ね、目先の繁盛ではなくていついつまでも日勝り月勝りに繁盛していけれる基礎土台というものが出来るというのだと。そういう心にまずなる事だと。
 捨賀精進。自分を捨ててそして自分の心の中にそれをいうならば神様のおかげを頂かなければ立ち行くまいという事が分かる。そして、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事を自覚する。ね。それは、大きな悟りである。そういう風に自覚すると言う事は翻然として自分のいうならば我力ではいけない。いや出来るようにあってもそれは目先が出来るようであって私共の本当の願いであるところの子にも孫にも伝わっていくような繁盛のおかげには繋がらないのだというそれを悟らせてもらう。そういう自覚が出来る。それが信心の悟りだと。
 それからなら、信心の本当の意味においての捨賀精心がなされなければならないのです。これは我を捨てていよいよ精心をすると言う事なんです。だから大変この捨賀精心と言う事は高度に持って行くと大変難しいことのようであり、または、手前のところでいくともう、一番初心の人でも捨賀精心という事は出来るわけです。昨日、私矢部の方のお取次ぎをさせて頂いたように本当に親先生そうですと。どっから手をつけてもよいやら分からんけれどもとにかく一番手前のね、今成さなければならないことを、それは右になさったほうがよい左になさなたほうがよいということを頂いてそうしていこうと。例えばこの年の瀬を過ごすというてもです、ね、その都度都度をです、自分というものを、むなしく、自分の考え方を捨てて神様のお心のままに生きようという生き方なのですから初心の人でもその気になれば出来るのですね。
 「捨ててこそ浮かぶ瀬もあり年の暮れ」であります。先日テレビで言っておりましたが、人間の体を雁字搦めに括ってからポンと海の中へ投げ込んだらプカッと浮くそうですね。もう自分という物を出そうと思うても出せないわけなんです。括られておりますから。
 ね。それかというてならそのままボンと投げ込んだら、泳ぎを知った人ならば浮こうけれども、泳ぎを知らない人ならばそのままぶくぶくと沈んでしまう。同じ利です。例えば手も足も出らんごとなっておる人ほどこの捨賀精心が出来るわけなんです。
 手も足もいわゆる一つの利です。「捨ててこそ浮かぶ瀬もあり年の暮れ」であります。ね。だからどういう風なおかげになってくるか私も分からん。けれどもそこに道がついてくる。浮かぶ瀬があると言う事は私は確信してお取次ぎをさせてもらう。だから自分を出さずに今あなたが自分を出さずに今あなたが難儀で困っておるいうならばひとえはたえに縛られておるのですから、これが海の中に投げこむとです、プカッと浮かぶわけです。ね。これは初心の人でもいわばいよいよ難儀を感じておる人ほど捨賀精心が出来るわけです。
 昨日は二十五日の研修会でしたが研修会でも終始この事を頂きました。皆さんの一人一人の発表を聞かせてもろうた。原さんが発表された。秋山さんが発表された。井上さん、または、福岡の川上さん、それをそういう、考え方が捨賀と言う事だとか、そういう考え方が捨賀精心。いわゆる心の精心だと思う。そういう生き方こそが本当の意味においての捨賀精心だと思う。その三つの事を皆さんが発表されたそのことがそういうふうに具体的に教えて頂いてまあ皆さんもその事を分かられただろうと思う。
 例えば原さんがこういう発表をされて、娘さんがお産で帰ってきておった。この前も帝王切開をしておかげを頂いておる。だからあれは一遍帝王切開をすると二度目も三度目もそうしなければいけないそうですね。けれどもお母さんとしては、下から本当の出産を頂きたいと願うておる。けれども娘達夫婦は早く切ってもろうてからでん早く出した方が良いといっておる。またお医者さんもまあ、学説どおりにそうした方が良いと言われたからそうしたそうなんです。そして無事安産のおかげを頂いたのです。
 そこで生まれた子供に名前をつける。長男も親先生につけて頂いた。神様からお名前を頂いたのだから今度も名前を頂きたいと思うた。ところがお父さんになる人が今度は僕がどうでもつけると。ところがその名前というのがです、その生命学から見てもいよいよもう成功もしなければ困った難儀な事になるという名前がついた。ね。そこでまあ色々、神様にもお願いをしたり原さん色々まあ、悩み抜かれた挙句に翻然として自分の心の中に感じられたことはです、例えばこの子が成長して困ったことになったといたしましても、ね、母親も信心するし、またその子供も信心のおかげを頂いて信心さえ残しておってやれば与えておけば、ね、お取次ぎを頂いてどういう難儀なことであってもおかげを頂くであろう。してみると難はみかげといわれるし、その難によって母子が力を受けお徳を受けるといったような生き方になれば難儀もまた有り難いと思うたら心がスッキリしたとこういうておる。普通ならばこれはどうでんこうでん、名前つけかえなければならんばいと言うたのが、普通の考え方です。そこに自分を捨ててです、翻然としてそういう考えが心の中に浮かんできた。
 ね。それこそ、身を捨てて浮かんできたわけです。ね。例えそれが難儀な事になってきても難はみかげとさえ言われる位だからその難によって力を受け徳を受け、幸い母親の方が信心があるのだから子供もまた、信心のおかげを頂くそこのところを願うていけばよい。親子共これから、本当の信心になっていけばよい。そしてなら、運命どおりに難儀な問題になっておてもその運命が問題が新たな展開をみるようなおかげになってくるのがお道の信心と自分自身の体験からそれを知っておられる。それを翻然としてそれもまたおかげだといわば悟りが出来たというのです。
 そしたら神様からそういう考え方が捨賀だと。自分は手術をね、切開手術をしようとせずにおかげを頂きたい。これは自分の思いであり自分の我である。それをを捨ててです、娘が言うように娘婿がいうようにです、ね、例えば切開手術をするただそのことを願うていけばよいのだと、それが捨賀。自分をすてると言う事。我を出さないということなんです。名前のいうならば付け方次第にも親先生にも頂きたいというのは、それは自分のどこまでも思いであり、それを募らせていくならそれは我になる。いや親先生につけてもらわなければというなら、これは我になっていく。
 父親になるのがつけるというならばならそうしなさい。しかもその名前が悪かった。悪かっても、それによって難儀になってもその難をみかげにしていく。いやその難のおかげで親子が助かる道を信心の道を開いていけば、安心だと思う心が自分を捨てたところへ浮かぶ瀬がそこにあったわけ。それを捨賀だというふうに頂いた。
 福岡の川上さんがお話になりました。もう本当に誰も真似の出来んお話でした。もう、福岡から日参を始められて一年何ヶ月になりましょうか。毎日、とりわけこの合楽示現活動が始まって本当の意味で日々を参画させて下さるどうぞその、神様のそういう働きに預からせて下さいと言う事を始終願い続けておる。電車の中でもバスの中でもまた自分の周辺の人達にです、このことを一生懸命に話す。大変喜んで下さる人もある、または反発をしてくる人もある。
 信心しよってもね、事故にあったりああいう難儀な事になっておる事実があるじゃないですか。金光様も宛にはならん、私はお寺に世話をしてもらいよるといったような反発に昨日は逢われたお話をしておられました。それは信心をしておってもです、やはり雨も降りゃ風にも逢うけれども、その逢い具合が違う。その後が違うという事実をまあ一生懸命に話されたら、はあーそういう風に貴女のごといいなさるなら金光様の信心というのは尊いものだなあという事が分かってもらったと言う事の意味の話をなさっておられました。
 私その方の川上さんの話を聞かせて頂いておったら私の心眼に頂くのが、まあ、日蓮上人が辻説法をしておる絵を頂いた。ですから、何でか見ておったのでしょう。日蓮上人様がね辻説法。いうならば、町角村、または町を出て、そしてその、沢山の人に、人間の本当の助かる道を一生懸命説かれた。または国難が来る。それを予言して、今ぐずぐずしておってはいけんのだ。今国が乱れておったはいけんのだ、今、全国日本中のものが心を合わせてその国難に向かわなければならないのだと言う事を一生懸命に力説された。いわゆる日蓮上人様がたどたど辻辻に立たれてお説教をされた。それを辻説法といった。
 自分の身のため、ね、または自分の家のため、もうそう言う事のためではない。人がきちがい坊主というてもです、やはりそれをとかなければおられなかったところに日蓮の素晴らしさがあったようにです、川上さんの場合でもその辻説法に匹敵するような素晴らしいこと。本当の意味においての捨賀精進。自分を捨てておらなければそういう精進が出来ない。原さんの場合はただ捨賀。ただ自分を捨てたというだけである。川上さんの場合になると、もう捨賀、自分を捨てきっておる。人があれが金光様きちがいと例えば人が言うてもですやはりまたは反発を受けてもです、それを説得していかなければやまん。そこに助かってもらいたいの一念がです、そういう精進になって現れてくる時にです、ね、日蓮上人様の辻説法にも匹敵するような、これが本当の意味においての捨賀精心だと頂いた。私は神も喜び金光大神も喜び、氏子もの喜びというのはそういう私は捨賀精心の出来おる姿ではないかと思う。ね。
 天地がもう感動ましましてです、それこそ、神仏が先に立って合楽次元の働きをみせて下さる。そういう生き方ならばそこに勿論自分自身の助かりもあるのです。医者ではどうにも出来なかった。例えば全身リュウマチの難儀な中からですそういう生き方から、ね、ご親戚が、お医者さんがあります。けれどもそのお医者さんが信心で信仰によって助かると言う事は素晴らしい事をです、お医者さんも認められるというか、感心しておられるそうです。だからそういう生き方がですただ自分のリュウマチが自分の病気が治らんならんからではなくて最近の川上さんの場合はです、本当に、いうならば、ね、地球上に人類の危機が迫っておるのだと、そういうような事を分からせて頂けば頂くほど、そこに一人でも、多くのいうならば生き残る人々の為にです、それこそ、辻説法もまたさせておらなければならないという精進。それが本当の意味においての捨賀精心であり、それは高度な捨賀精心でありますね。矢部のお茶製造業の方に私は申しましたのはこれは初心の人でも捨賀という事は出来るのだと。
 精心という事はですいよいよ神も喜び金光大神も喜び自分も賀べれるという生き方という事になるためにはです、ね、本気で合楽示現活動に参画させてもらうという願いをもって、それを精進いわゆる現していくところの、働きに精進させてもらという事になるときにです、神も喜び金光大神も賀ぶ。氏子もの喜びじゃと。いかに十年二十年ご理解を頂いておってもです、いよいよ合楽に合楽示現活動と言う事が叫ばれるようになってもそれをただ聞き流しにしておるというようなことではです、長年教えてこられた師匠に対しても相済まんことじゃないかと。ここに一つのそういう結実。そういう実が実っていくことのためにですいうならば、十年二十年の信心の稽古をしておった。その信心をもとにしてですいわゆる示現活動に参画させてもらおうという、強い祈り願いを持たせて頂くそういう生き方をです、神も喜び金光大神も喜びいわゆる、教えがえがあったと言う事になり、また、習いがいがあったということにもなり、神が喜び金光大神が喜びそして私共も喜べれるおかげが約束されるのです。
 そして、信心の一番素晴らしいことはです、自分を捨てる。そして神様のお喜び頂けれるような働きにです精進させて頂けれると言う事が一番素晴らしいことなんです。ね。それがいうならばですね、極楽行きから合楽行きであります。
 今度、マルショウの感謝の夕べにそういう入場券が極楽行きから合楽行きへという汽車の切符と同じような形の入場券を作っておりました。三百枚から売れたそうです。それは、来ておる人は五十人が百人から足らない位の人だったでしょうけれどもです、やはりあの、それを、買っておるとか持っておくというだけでもやはり素晴らしいことだというようなことが沢山売れた原因では、まあそれだけではないでしょう。けれども、ではなかろうかと思います。ね。
 先日あれは竹内先生から頂いた切符は、なんとかいうですね。幸福駅から・・、愛か、愛の駅から幸福駅へというあの切符が別に乗らなくてもですやはり人間というものはそれを持っておきたい。財布の中にちゃんと入れておきたいようにです、今度私はまるしょうが作っておる切符はです、御互い財布の中にでも入れておいてです、本当にです、それを見るたんびに、これが神様の願いなのだ、そういう神様の願いに答えさせて頂きたいという願いから財布に入れておくならおかげを頂くと思うですね。
 極楽行きから合楽行きへというあの切符がです、いうならばここには全然出席しない人でも二百名あまりは、あの、買っておられると言う事なのです。だから、それはいくらか知らん、百円かそんくらいでしょうけれども、あれは私は値打ちのある切符だと思いますよ。そういう意味合いで。そして、そういう神様の願いに答えさせて頂こうとやはり願わなければいけません。そして願いをもっておくところから神様が機会を作って下さる、チャンスを作って下さる。そこにいうならば私は精進。
 今日は、昨日から引き続いて研修会でも申しました捨賀精心と言う事を、聞いて頂きましたがです、この捨賀精心の精神こそ、神様が喜んで下さることだ。それを実行させていただく事で金光大神も喜んでくださることだ。同時にまた私共もおかげを頂く道だと言う事になります。神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びになっていくような信心を身につけたいですね。                            どうぞ。